現代戯曲研究会


ポストドラマ演劇とは?
新野 守広

今回はポストドラマ演劇について簡単に紹介しよう。

ポストドラマ演劇という言葉を定着させたのは、フランクフルト大学の演劇学者ハンス=ティース・レーマンである。彼が1999年にドイツで出版した『Postdramatisches Theater(ポストドラマ演劇)』という演劇書が契機になった(邦訳『ポストドラマ演劇』谷川道子他訳、同学社)。

レーマンは「現実に存在する演劇を対象にして演劇学を演劇体験の省察とみなす演劇研究者」(邦訳18頁)という立場から、舞台表現の美学的考察を行っている。少しわかりにくいが、省察(Reflexion)はポストドラマ演劇のキーワードである。作り手が社会における演劇の位置を振り返る作業を舞台にのせるとき、舞台は社会と演劇についての省察となり、そこに現代に生きる人間の姿が浮かび上がると考えれば良いだろう。レーマンは、戯曲を重視するドラマ観だけでは現実に存在する演劇の省察には不十分であると言う。舞台とは何かを考えるとき、さまざまな舞台要素(演技、美術、照明など)を戯曲から独立した表現として受け入れなければならない。しかも舞台上でのこれらの諸要素の統合を求める必要はない。多様な要素がそれぞれ自立した舞台、それがポストドラマ演劇と総称されるのである。

さらにレーマンは、欧米演劇の現状への不満を語っている。たとえば大多数の観客は「理解可能な筋や意味、感動的な観劇体験を当てにして」(19頁)劇場に来ている。これでは、演劇本来の可能性が発展しないとレーマンには思えるのだ。なぜなら演劇とは「演じることと見ることが同時に起こる空間であり、その空気をともに吸いながら、俳優と観客に共同に過ごされ、共有で消費される生の時間」(16頁)なのだから。つまりたとえ言葉に出されなくても、演劇体験には潜在的なコミュニケーションが成り立つのである。「理解可能な筋や意味、感動的な観劇体験」にあらかじめ心の照準を合わせてしまうと、劇場という場所が開くさまざまな可能性が表現から閉ざされてしまう。レーマンはそこが不満なのだ。

従来のドラマ観にとらわれない舞台を作るアーティストとしては、ロバート・ウィルソン、タデウシュ・カントル、ピナ・バウシュ、ヤン・ファーブル、ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップス、フランク・カストルフ、ヤン・ローワース、ルネ・ポレシュ、鈴木忠志、田中泯、勅使川原三郎らの名が挙がっている。「ポストドラマ演劇」は、舞台芸術を語る上でこれらの舞台が無視できないことを踏まえて書かれた。日本でもこのアーティストたちの作品はしばしば上演されており、レーマンのモチーフに共感を覚える観客は少なくないと思う。

ポストドラマはドラマを捨てることではない、とレーマンは言う。写真の誕生を契機に絵画が現実の模写以外の可能性を追求したように、映画やヴィデオなどの映像技術が普及した今日、演劇が生き延びるためには、現実の模写に主眼をおくドラマに依拠するだけでは足りないというのである。演劇が社会の問題を扱い続けるためにも、演劇独自の「省察」の形式が必要であり、そのためにはドラマ以外のさまざまな要素にも着目すべきだと言い換えても良いだろう。「ポストドラマ演劇」は少数の観客のためのとんがった舞台を指すだけでなく、作り手と観客がテレビやネットとは異なるコミュニケーション体験を模索し、語り合うための出会いの演劇となるのではないだろうか。
(立教大学教授)
<2008.9.25発行『近代能楽集』プログラムより>