現代戯曲研究会


戯曲を通して見る同時代の演劇-ドイツ- 2
新野 守広

ドイツ語圏の芝居を観ていると、俳優たちの動きがしなやかで力強いのに驚く。しかもどの劇場も台詞劇を中心としているため、豊かな声量と明確な発声も身につけている。耳からも目からも楽しませてくれるので、飽きないのだ。

たとえばベルリン・ドイツ座のタールハイマー演出『ファウスト第一部』。黒く覆われた舞台の前で、カジュアルな服を着た俳優たちがゲーテの名台詞を客席に向かって熱く語り始める。40分ほど経つと、覆いが回転して取り除けられ、中央にベッドが1台置かれただけの空間が開ける。簡素だがかなり広いこの空間で、ファウスト役のインゴ・ヒュルスマンとグレートヒェン役のレギーネ・ツィマーマンが悲劇を演じる。何度もベッドに飛び上がっては床に転げ落ちるファウスト、化粧も衣装も大胆に崩れるグレートヒェン。ダイナミックな2人の動きからは、片時も目を離せない。

2005年6月に新国立劇場中劇場に招聘されたベルリナー・アンサンブル『アルトゥーロ・ウイの興隆』もそうだった。開演直後ヒトラーに良く似た上半身裸の小男が、犬のように床を這いずり回った。演じたマルティン・ヴトケは怪我のため本来の動きは出来なかったが、それでも暗い舞台をうろつき回るヒトラーに似た犬が立ち上がり、最初はひどい小心者なのに、シェイクスピアの老名優に演技を学んで独裁者の身振りを習得し、ついに本物の独裁者として君臨する様は圧巻だった。最後にこの犬が独裁者の苦悩する内面すら獲得する姿には、演劇の本質を戯曲化したブレヒトと演出のミュラーの慧眼を実感することができた。

俳優たちに話を聞くと、俳優の本分は身体を使う職人であると心得ているようだ。ヴトケは個性的な俳優だが、スタニスラフスキー以外の特別なメソッドで修業したわけではないという。彼らは稽古中、何か面白いことがあると、自分でもやってみる。ある俳優が椅子から転げ落ちる役を演じると、さっそく転げ落ちてみる。どうやれば印象的に転げ落ちられるか、稽古場のあちこちでああでもない、こうでもないと試し始めるのだそうだが、どこか職人の手仕事の伝統を感じさせる愉快なエピソードだ。

こういう俳優たちを使える劇作家はさぞかし楽しいだろうと思うが、劇作家は作家としての独自のドラマ世界を作ることをめざしており、必ずしも俳優や演出家に依存しないという。しかし戯曲は舞台化されなければ完成しないし、書かれた文化圏を離れれば別の姿を見せる。

09年3月と5月に上演が予定されているシンメルプフェニヒ作「昔の女」とデーア・ローアー作『タトゥー』は、作家が自分の世界の独自性を追求した好例だ。舞台上の時間が前後し、同じ場面が何度も繰り返される『昔の女』。ごく普通の家庭の日常を描きながら、いつのまにかネジがはずれて全体がバラバラに崩れていく様を描く『タトゥー』。両者とも戯曲として完成度が高く、新しい演出家と俳優との出会いを待っている。それぞれ演出を担当する劇団ペンギンプルペイルパイルズの倉持裕さんとチェルフィッチュの岡田利規さんは、俳優のあり方も演出家の職能もドイツ語圏とはまったく異なる日本でどういう舞台を作り出してくれるのだろう。
(立教大学教授)
<2008.4.17発行『焼肉ドラゴン』プログラムより>