現代戯曲研究会


戯曲を通して見る同時代の演劇-フランス-
佐藤 康

新国立劇場演劇研修所と戯曲研究会による初の共同作業が、さる6月19日、日仏演劇協会の主催するセミナー「同時代演劇への招待」(東京日仏学院)において実現をみた。テーマ作品の翻訳を担当した筆者が簡単に作品解説を行った後、研修所第1期生の出演によるリーディング(演出:鵜山仁)を公開し、参加者との討論で会を締めくくった。

今回取り上げたのはミシェル・ヴィナヴェール作の『テレビ番組』。深刻な中高年の失業問題を背景に、2組の夫婦がテレビ出演をめぐって確執をくりひろげる。ところが夫が殺害されるという予期せぬ事件は起こるし、そこに予審判事やテレビレポーター、また夫婦の息子の、それぞれに複雑で微妙な人間関係が絡み合うという、ひと筋縄ではいかない作品である。しかもこの作品はヴィナヴェールお得意の、時系列を無作為に並べ替えた断片化の手法で構成されている。殺人犯は誰なのか。テレビの出演者は結局、誰になったのか。あらゆる「サスペンス」が解決に向かいつつも迷宮化して、文字通り「宙吊り」にされてしまう、いわば「アンチ・サスペンス」とでも呼びたくなる作品である。せりふの文体も独特に省略的で、私たちはどこまでも「部分」でしかない世界に向かい合うことになる。作者に言わせれば、それこそが現代社会に生きる私たちが現実と切り結ぶ関係なのだ。

それはともかく、こういう既存のスタイルに対してオルタナティヴな位置にある作品は─それが現代作品の条件でもあろう─、いざ上演しようとなると、やはりそれはそれで厄介ではある。演劇はこの点、純粋に個人的な営為ではないから、そう簡単には突っ走れない宿命を持っている。だが、それを媒介にしなければ、演劇は自らを問う姿勢を忘れて衰弱せざるをえないのも本当なのだ。

このジレンマから脱出するためのひとつの解答は、劇場と演劇の関係を再構築することに求められよう。劇場を本公演(=スペクタクル)の一枚岩でのみ活動させるのではなく、プログラムを重層化するわけだ。たとえばフランスで現代作家の発掘に功績を残して国立演劇センターに昇格したテアトル・ウヴェール(開かれた劇場)が提唱、実践するスタイルは、最大限にシンプルな「朗読会」から本公演までのさまざまな段階を、それぞれに演劇の完成形として公開公演するという形である。良くない喩えかもしれないが、それはあたかも裁判の審級を経てテクストが結審を迎えるようなものである。リーディングから仮実演(粗立ちのようなもの)を経て本公演と進んでいくものもあれば、ある段階で決着してしまうものもある。逆に本公演のみというものもある。が、それは作品の質的な良し悪しとは異なる基準にてらしてのことなのであって、それぞれが、テクストにとって最高の上演形式を探求した結果なのだ。

私たちはこうした試みを通して、テクストを声に出すこと、動く身体を見せること、他者を演じることの意味を考えざるをえない。通常の意味で「演じる」にふさわしいテクスト以外は演じる必要がない。そしてまた、演じることだけが演劇なのではない。現代演劇のこうした変容を見据えつつ、演劇をもう少し軽装備にして、開かれた、風通しのよい場に連れ出すのも、公共劇場に与えられた使命のひとつであるように思うのだが、如何だろうか。
(学習院大学講師)
<2007.10.17発行『たとえば野に咲く花のように』プログラムより>