マンスリー・プロジェクト情報


[演劇講座]
『ゴドーを待ちながら』徹底解剖
講師:岡室美奈子(早稲田大学教授)
3月5日(土)・6日(日) 5階情報センター

瓦礫からの祈り――『ゴドーを待ちながら』の変容と現在(いま)

岡室美奈子(「ゴドーを待ちながら」プログラムより)

瓦礫の上の『ゴドーを待ちながら』

2011年3月11日の大地震とそれに続く大津波、さらに追い打ちをかけた原発事故により、日本は未曽有の危機に見舞われている。こういう状況下で『ゴドーを待ちながら』(以下『ゴドー』と略記)が上演されることには大きな意味がある。なぜなら『ゴドー』は絶望的状況に置かれた持たざる者たちの、希望と祈りの劇だからだ。

『ゴドー』は、ナチスによるホロコースト、広島・長崎への原爆投下による大量殺戮を経て、近代市民社会を支えた「個人」という概念が無残に踏みにじられた瓦礫の上に誕生した演劇である。ベケットは第二次世界大戦勃発後、中立国だった母国アイルランドではなくフランスに住むことを選び、対ナチス・ドイツのレジスタンス運動に身を投じた。終戦直前にはアイルランド赤十字に志願し、ドイツ軍の大空襲を受け文字通り瓦礫の山と化したノルマンディーのサン・ローの野戦病院で通訳兼物資補給係として働いた。そこで人間の尊厳とは無縁な理不尽な死を目の当たりにし、原因と結果が結びつかぬ強烈な不条理の感覚に打ちのめされたはずだ。『ゴドー』が書かれたのは、それから3年後の1948年から翌9年にかけてである。舞台となる1本の木だけが立つ風景には、アイルランドの田舎道のみならず、サン・ローの瓦礫の荒野が重なっている。当時のベケットにとって、不条理は難解な思想などではなく、きわめてリアルで具体的な世界の見え方だった。1993年、紛争のただ中で砲弾に曝されるサラエボで『ゴドー』を上演したスーザン・ソンタグも、同じ想いに突き動かされていただろう。そして3.11以降の日本で繰り返し放映された、日々の営みを一瞬にして飲み込む大津波の映像に、私たちは同様の感覚を抱いたのではなかったか。

日本の『ゴドーを待ちながら』

今ほどの危機ではなかったにせよ、日本の『ゴドー』は日常の揺らぎとともに上演されてきたと言える。1960年、日米安全保障条約に反対する安保闘争の嵐が吹き荒れるなかで、『ゴドー』は日本初演を迎えた。翻訳と演出を手がけた安堂信也によれば、『ゴドー』上演中の都市センターホール近くの国会議事堂周辺では連日デモが行われていたという。『ゴドー』は別役実、鈴木忠志、唐十郎、佐藤信らに多大な影響を与え、アングラ演劇と呼ばれた新しい演劇を生み出す起爆剤となった。政治の季節が終焉しゴドーの不在が際立った後も『ゴドー』は日本でたびたび上演されたものの、難解な不条理劇というイメージが先行し、この劇が本来もっていたはずのリアリティは失われていった。70年代には、つかこうへいの『巷談 松ヶ浦ゴドー戒』などのパロディが『ゴドー』の神話化に拮抗して気を吐いたものの、80年代後半から90年代初頭にかけてのバブル期においては、ゴドーのイメージだけが引用され消費されていった。しかしバブル崩壊後の1994年、演劇がふと我に返ったように『ゴドー』ブームが降って湧いた。80年代に『ゴドー』をベースにした『朝日のような夕日をつれて』で観客を大量動員した鴻上尚史や、アングラ出身ながら大劇場を活躍の場にしていた蜷川幸雄が『ゴドー』を演出した。「静かな演劇」で注目されることになる宮沢章夫が『箱庭とピクニック計画』で『ゴドー』を引用し、脱力系の俳優たちの身体が新しい展開を予感させたのもこの年だった。バブルがはじけて「終わらない日常」が自明でなくなったとき、明確な目的や希望を持てぬままにそれでも目の前の1日をやり過ごす持たざる者たちの姿は、徐々に日本の社会とシンクロし始めていたのである。

日本の『ゴドー』が大きく変容したのは、20世紀最後の年に上演された2つの舞台だった。ひとつは、串田和美演出、緒形拳と串田主演、もうひとつは佐藤信演出、石橋蓮司と柄本明主演の舞台である。どちらもそれまでの難解な不条理劇というイメージを脱し、等身大の日常的リアリティに満ちていた。長引きつつあった不況下で非正規雇用者問題等への予兆をはらみつつも妙にまったりした空気のなかで、時代がようやく、どこにも行きようのない2人の姿に追いついたと感じたものだ。が、今振り返れば、そこには95年の地下鉄サリン事件と阪神淡路大震災が否応なく影を落としていたことがわかる。日常が死と隣り合わせであることを実感しつつそれでも日々の生活を続けていかなければならなくなったとき、『ゴドー』はかつてないほどのリアリティを獲得したのだ。

祈りの劇

『ゴドー』の2人組は、仕事も家もろくな食べ物もなく、その場しのぎのごっこ遊びや意味のない会話を続けながら、個人の意志や行動とは無縁に突然終わるかもしれないし延々と続くかもしれない曖昧な世界のなかで、ただひたすらに救世主を待つ。ゴドーが来れば何から救われるのかもわからぬままに。しかし、『ゴドー』は決して絶望の劇ではないと私は思う。『ゴドー』という劇全体が、不定形の祈りを表現しているからだ。それは残酷で不条理な世界に投げ出された人間の、ただ生きることへの、人が人であることの根源に向かうような祈りである。祈りが被災者を救えるのか、という問いはあるだろう。祈りは祈りでしかない。しかしそれこそが、太古の発生のとき以来演劇行為が本来的にもっていた力なのではないだろうか。『ゴドー』は神なき世界に祈りを取り戻し、明日へと希望をつなぐ演劇だと思うのである。

あの大地震と膨大な余震のせいで、私たちは絶えず体が揺れているような錯覚に陥りがちだ。もはや生活の足場が確固としたものではないことを私たちは身体的に知っている。昨日は街が確かにそこにあったのに、今日はまったく違った風景になっている。同じ場所なのかどうか確かめるすべもない。一緒にいる家族や友人は時として足手まといだ。1人になったほうがずっと楽かもしれない。しかしそれでも一緒に待ち、よりよい明日のために祈り希望をつなぐ。今ほど『ゴドー』がリアリティを持ちうるときはないだろう。21世紀の新しい『ゴドー』に期待せずにはいられない。


第7弾である演劇講座「『ゴドーを待ちながら』徹底解剖」が、3月5日(土)・6日(日)に5階情報センターで開催されました。

4月の演劇公演『ゴドーを待ちながら』の上演を前に、ベケット研究の第一人者で知られる早稲田大学の岡室美奈子教授が、『ゴドー』を始めとしたベケット作品の様々な舞台映像をお見せしながら、『ゴドー』を多角的に分析し、「難解な不条理劇」というイメージとは異なるリアルな「ゴドー」に迫りました。

ベケットの人物像から、様々なエピソード、「ゴドー」の現代の解釈まで含めたわかりやすく面白い講義に、お客様は熱心に受講なさり、「先生のベケット愛が感じられる素敵なお話だった」「ベケットの作品=不条理=訳が分からない という呪いが解けた気がした」「過去の舞台映像の比較も具体的で時代の変遷がよく理解できた」「来月の公演が楽しみになった」などの感想をいただきました。

講師の岡室美奈子さん