シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

IV 登場人物にみる『ヘンリー六世』 安達まみ(英文学者)
2009年11月12日[木]

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ここで、当時の歴史観、歴史についての見方を考えてみたいと思います。
この時代のイギリスでは、歴史への興味が生まれまして、年代記が次々に出版されました。シェイクスピアが主に種本として用いた、エドワード・ホールやラファエル・ホリンシッドの年代記が代表的なものでした。そうした年代記は一人が書いたものではありませんで、複数の人が書いた記述を編集したものですから、肩入れする政権や信条の数だけさまざまな視点が入り混じっているものだったのです。元来そういうものでした。
また、そういった年代記には国の興亡にかかわる大事件だけではなく、伝説ですとか、地震があったとかいう天変地異とか、噂ですね、どうやらあの人は魔術師らしいといったような噂なども記述されていました。
そのような雑多な情報をシェイクスピアが取捨選択しまして、時には歴史的事件の時間を大幅に圧縮したり、歴史にはない場面を書き加えたり、時には年代記でほのめかされている点を拡大解釈して演劇的な効果をだしています。シェイクスピアが生きた時代には、中世以来の伝統的な神中心の歴史観の名残がまだあります。そして一方、新しい世俗的な人間中心の歴史観がありまして、その両方が入り混じっていました。また歴史観がより人間中心になってくるということは、人間がこれまでの道徳的な価値観の縛りから解き放たれて世俗的な目的を達成するために気兼ねなく行動して自分の物語を紡ぎだす、そしてその様を年代記やシェイクスピアが描き出すということになっていくのだと思います。

図(4)次に、特に種本にはない、シェイクスピアの創作の部分に着目してみたいと思います。
代表的なのは、第一部のテンプル法学院の庭園の場です。【図(4)】をご覧ください。
たいへん有名な場面でして、とかく史実であると思われがちなのですが、実はシェイクスピアの創作でした。貴族たちがテンプル法学院の庭園に集って、白薔薇・赤薔薇をつみとって自分の印とするという場面は、実はなかったんですね。しかし、その後、この薔薇戦争の勃発のきっかけを伝える神話になりまして、それはずいぶんあとの時代のものなのですけれど、このような絵画で繰り返し取り上げられるようになりました。
ランカスター家には13世紀から赤薔薇を紋章として使う習慣がありましたが、実はヨーク家の紋章は白いダチョウの羽など、複数ありまして、必ずしも白薔薇ではなかったようです。ところが、どうしてこういった場面が生まれたかというと、最終的にランカスター家のヘンリー七世、第三部でちらっと出てくるリッチモンドのことですが、それとヨーク家のエリザベスの結婚で、エリザベス一世のチューダー王朝が生まれました。チューダー王朝の紋章は、赤と白の混じった薔薇だったんですね。王朝が誕生し、平和が到来し物語の結末をもたらすために、はっきりとわかりやすい象徴、つまり白薔薇と赤薔薇という象徴が必要だったんですね。ですからこういったような場面が生まれました。

シェイクスピアは第一部で、ひとたび意味を与えられた象徴、薔薇のような象徴がいかに一人歩きしてしまうのかというのを描いています。
レジメの(5)aをご覧ください。
白薔薇を手にしたヨークはテンプル法学院の庭園の場でこう言います。
「私の主張するところに真実があるとお考えなら、私とともにこの枝から白バラを手折っていただきたい。」
もちろんヨークがこのように言うのは、政治的な意図があったからです。彼の言う真実というのは、古い神中心の歴史観が支配的だった、それまでの時代の神の真実ではありません。そうではなくて、自分の極めて世俗的な欲望の正当化なのですが、それはこの作品が投げかける根本的な問題につながっています。
つまり時の王はヘンリー六世ですけれど、武勇の誉れ高い父親ヘンリー五世と異なり、ヘンリー六世はわずか9カ月で即位し、この時点ではまだ若くて、摂政がいて、弱い王様なわけですね。ですから、いわば権力の真空状態が生じまして、ヨークはヘンリー五世の時代では不問にふされていた血統の正当性の問題を取り上げています。ヘンリー六世は、エドワード三世の4番目の息子、ヘンリー四世の家系です。ヨークのほうは、エドワード三世の5番目の息子の家系なので、ヘンリー六世よりランクが下なのですが、お母さんのほうの家系では、エドワード三世の3番目の息子の家系であるということを打ち出して、自分のほうにこそ正当な王位継承権があると主張します。
問題なのは、ヘンリー六世もヨークもどちらも決定的に優位な血統ではないということです。当時は長子相続制が基本でしたし、女系の血統が問題視されていたということもあったからです。ですから全員が確固たる正統性を持ち合わせていないために、弱い王のもとでは正統性の主張がぶつかりあって、正統性のあいまいさが露呈されるのです。このようにヨークは自分の主張を「真実」に強引にすり替えていきまして、他の貴族たちもそれぞれの思惑にそくして赤・白どちらかの薔薇の紋章のもとで戦うことになります。

この場面の最後で、ウォリックがこのように予言しています。レジメ(5)bをご覧ください。
「私はここに予言します。テンプル法学院の庭で、今日、このような党派争いにまで進展した論争は、やがて赤バラと白バラのあいだの戦いとなり、きっと数百数千の魂を死と暗黒の世界へ送ることになるだろうと」
政治的な風向きを見るのに敏なウォリックの言葉です。彼は、後にキング・メーカーとあだ名されていますね。彼らしい予言ですね。観客は、この予言が成就されることをもちろん知っているわけです。
ところが、これに対してヘンリー六世は、こうした象徴の一人歩きに気づいてか、薔薇という象徴に込められた意味を取り除こうとします。そして、赤薔薇・白薔薇の戦いをやめるように呼びかけ、自ら赤薔薇を手折り身につけ、象徴を無効化しようとします。
(5)cをご覧ください。ヘンリー王の言葉です。
「この黒白つけがたき争いは私に裁かせてもらおう。かりに私がこうして赤バラをつけたからといって、だれ一人、私がヨークよりサマセットのほうに心を傾けている、などと思いはしないだろう、二人とも私の親族であり、二人とも私は愛しているのだ。…」
ところが、政治とは無縁の愛の論理を語るヘンリーには、一度一人歩きしてしまった象徴の意味を取り除く力はありません。皮肉なことに、こうしてむしろ対立を悪化させてしまいます。それは続くヨークのセリフにも明らかです。
「・・・気に入らぬのは、あのようにしてサマセットのしるし(安達注:つまり赤バラですね)をつけたことだ。」
こうしてテンプル法学院の庭園の場面で始まった赤薔薇と白薔薇の争いは、まさにウォリックの予言どおり、多くの犠牲者を出す戦いへと進展していきます。
ウォリックの予言との関連で申し上げますと、この芝居には繰り返し、予言ですとか呪文、呪い、誓い、祝福などの言葉が飛び交っていることにみなさんお気づきになりましたでしょうか。また、予兆や夢への言及なども見られます。こういったことを「マジカル・シンキング magical thinking 」と呼んでもいいんじゃないかと思っているんですけども、これは言葉が時に人間の知識や話す人の意図を超えて物質世界に不思議な影響を与えることがあるんだという考えにのっとっています。
予兆としては、みなさまの記憶に新しいものとして、例えば第三部二幕一場のヨーク家の3人兄弟が見る3つの太陽が真っ先に挙げられるのではないかと思います。予言では、先ほどのウォリックの予言のほかに、数限りなく出てきます。第三部四幕六場ではヘンリーが、若きリッチモンド伯のことを「イギリスの希望」と呼んで、後にリッチモンドがヘンリー七世としてチューダー王朝の始祖となることを予言しています。当時は、もちろんキリスト教の考えに基づいていまして、それが背後にあり、二項対立的に神対悪魔、善対悪という道徳的な概念がありました。マジカル・シンキングというのは、神の意図、神意が人間界に姿を現すという考え方に即していました。これをもちろん特定の政治的目的に用いる策略家もありました。時々の王権は、二項対立的な物の考え方やマジカル・シンキングを利用しまして、自分たちこそ正統な王権なのだと主張しました。
ところが同時に、この時代、懐疑的なものの考え方が忍び込んできます。それは、特にチューダー王朝を始めたヘンリー八世がそれまで全員カトリックでしたが、カトリックと袂を分かち、プロテスタントの英国国教会を打ち立てて、自ら首長になったことと関係しています。
新しいプロテスタント教会は、それまでのカトリック教会の考え方を否定しようとします。例えば人間の世界に起こる奇跡、このお芝居にも実はまやかしだった奇跡というのが出てきます。奇跡は神の意思の現れだとカトリックの人々は言っていましたが、プロテスタントは奇跡を否定しました。そして、教皇は神の代理人であるというカトリックの考え方を、プロテスタントは否定しました。
つまりシェイクスピアの、このお芝居の背後にある二項対立的な考え方に従いますと、まず片方にはプロテスタント=神=善=イギリス=男性があり、それに対してカトリック=悪魔=悪=フランス=女性という概念の図式があるわけなんですね。