シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

III シェイクスピアの時代に歌舞伎は何を描いたのか? 古井戸秀夫(歌舞伎研究家)
2009年11月11日[水]

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シェイクスピアが生まれたのは1564年で、死んだのは1616年だといわれています。生まれたのはロンドンではございません。ストラットフォード・アポン・エイボン、今でも記念にそこに劇場などが建っております。そこで生まれて、そこで亡くなったんだといわれています。ですからシェイクスピアは生まれた場所も年も、死んだ年もわかっているんですね。ところが出雲のお国というのは、いつ生まれたかよくわからないんです。伝説では、出雲の国、松江の近くの杵築(きつき)というところで生まれた。お父さんは、出雲大社の鍛冶屋さんで、中村三右衛門だったと言われていますが、今歴史学者のなかでそれを信じる人は一人もおりません。私も信じておりません。ですから、そういう伝説はあるんですけれども、どこで生まれたかわからないし、いつ生まれたかもわからないし、最後には、シェイクスピアが死ぬころ、お国は最後の舞台に立ったという記録があって、その後どこへ行ったかわからないんです。
何か悲しいですね、役者さんというのは舞台に立っている時はキラキラ輝いているけれども、時が経つとだんだん忘れ去られてしまう。対して劇作家は、立っている時は役者さんが目立っているけれど、でもその戯曲はずっと残り続ける。ああ、うらやましいなと思うかもしれません。でも、出雲のお国は、その精神ですね、自分がつくった歌舞伎という精神が多くの日本人に受け継がれて、今でも多くのお客さんを集めて感銘を与えているわけですね。だからお国自身はスーッと消えて、シェイクスピアのようなしっかりした足跡は残せなかったけれども、それが精神として伝わっていく。ここに私は対照を見るんですね。しっかりとした形になって残るものと、形には残らないんだけど、心に伝わっていくもの。演劇とか政治とか社会とかを考えて行く時に、やはりこの2つの要素ですね。形になってはっきり表れるものと、形なんかにはならないんだけれども、われわれの心を大きく動かしていくもの、そういう2つのものがちょうど対照的にシェイクスピアと出雲のお国に表れているのかなと思います。

シェイクスピアが一番最初にロンドンに出て有名になるのは16世紀の終わりです。ですから20歳を過ぎて劇作家としてデビューしてから有名になります。ところが出雲の阿国はそれより以前、シェイクスピアがロンドンにいる以前、出雲から出てきたか、どこから出てきたかわかりませんけれども、京の都に出てきて踊りを踊っているんですね。それが、レジメの(2)というところに書きました天正9年という年なんです。西暦でいいますと1581年、この時出雲のお国は数え年で11歳、満でいいますと9歳とか10歳、小学生ですね。ですから少女スターとして正親町天皇(おおぎまちてんのう)という天皇陛下の前で踊りを踊ったんだと、こう言われています。ですからシェイクスピアのデビュー前に、少女スターとして出雲のお国のほうがまず舞台の歴史のなかに足跡を残した。そしてシェイクスピアはロンドンに出てきて劇作家として有名になって死んでいく。それと同じような時期に出雲のお国も消えていく。たぶん年齢的に言いますとシェイクスピアのほうが少しお兄さんだと思うんですよね。でもお兄さんだけど、文学者としてのデビューは遅く、女の子は恵まれた才能があれば幼くても天皇陛下の前で踊るほどの力があった。美空ひばりさんみたいですよね。