シェイクスピア大学校


『ヘンリー六世』上演記念 シェイクスピア大学校
6回連続講座
芸術監督:鵜山 仁
監修:小田島雄志 河合祥一郎

I シェイクスピアは楽しい 小田島雄志(英文学者)
2009年11月4日[水]

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シェイクスピアは、エリザベス朝演劇といわれています。それを遡ると、古典劇とFolk dramaという2つの流れがあります。
エリザベス演劇といわれるのは、エリザベス女王が1558年に即位し、シェイクスピアは1564年生まれですから、まだ劇場がない時代です。シェイクスピアが12歳になったころ、1576年に初めてThe Theatre、劇場という名のパブリックシアター、ちゃんとお金をとって一般のお客さんに見せる劇場が建った。その1576年から、1642年にピューリタン革命が起きる、チャールズ一世のときです。ピューリタンは歌舞演劇の類が嫌いなので、ここで盛んを極めたエリザベス朝演劇もいったん終わります。
そのエリザベス朝演劇の前に何があったかとういうと、一つには、Folk drama、民衆劇、民間伝承劇なんですが、ヨーロッパ各地みんなそうで、教会の行事から始まったといっていい。復活祭とかクリスマスとか、そういうときに歌ったり踊ったり、簡単な芝居じみたことも教会から始まり、その教会から行事が独立して一般民衆、ギルドという職業組合みたいなものが単位になって演劇が始まった。ただ、教会の行事だから、内容はイエスの生涯や奇跡を並べている。キリストの誕生の場面があり、最初の奇跡はカナの婚礼ですか、そういう場面があり、最後は復活の奇跡まで、それを一つの職業組合が一つの場面を受け持って山車に乗ってゆっくり練り歩いて広場で見せたり、置いてある山車のまわりをお客さんが見たり、いろんな形があったようですが、イエスの生涯がいくつかのエピソードとして描かれた。でもこれだといくら手を変え品を変えてもそれほど変わりようがないんで、ミラクルズとかミステリーズ(神秘劇)から始まって、やがてそこから離れて“モラリティ・プレイズ“道徳劇が始まる。道徳劇と訳されているけど、教訓劇ですね、例えばEveryman、普通の人間ということなんだけど、これがいよいよ死ぬことになって、一人であの世に行くのは寂しいから誰か一緒についていってくれないかと、「友情」とか「財産」とか「知識」とか、「美しさ」とか、そういう名前の知り合いのところに行って、一緒に死んでくれと言うと、みんな嫌がるわけですね。その断わり方が面白い。「きのう言ってくれたら喜んで一緒に行ったのに」とか、理屈を並べて行ってくれない。最後に、「グッドディーズ」、よい行い(善行)のところへ行ったら、「じゃあ行こう」と行ってくれた、というだけの芝居なんです。これが何かというと、いい行いをしていればあの世についていってくれるという教訓なんですね。
さらに時代が進むと、シェイクスピアが生まれるちょっと前の1545年ごろに、ジョン・ヘイウッドという人の『4人のPたち』という芝居がある。これは名前からすると、“インタールード”と言われ、間狂言と訳すとだいぶ違うんだけど、要するにパーティなどの間にやる喜劇なんで、教訓さえない。4人のPとは何かというと、ペドラとかパドラとか、要するにPで始まる4人の職業をもった男が巡礼に行こうとして、ある晩宿屋で一緒になって退屈だから、嘘比べをやろうと言って、面白い嘘をついた奴が一番になるというだけのことなんだけど、1人しゃべり2人しゃべり、3人目が「実は自分の女房が死んだ」と、天国へ探しに言ったらいなくて、地獄に行ったらいたと、何とか女房を返してもらえないかと言ったら、地獄の閻魔大王みたいなのが「あれがお前の女房か。どうか連れてって帰ってくれ、あんなヒステリーな女が来たおかげで地獄中がヒステリーだらけでたいへんなんだ」と。そして4人目が「それはすごい嘘だ、だいたいヒステリーの女なんて見たことない」と言ったら、それが優勝しちゃった(笑)。これは教訓も何もないですね。教訓といえば、僕がこれを女房に読めと言ったくらいで(笑)。
これが中世演劇のFolk dramaです。のちに、20世紀になってブレヒトの叙事演劇と言われるものの元は、これです。
一方、シェイクスピアのエリザベス朝演劇になると、ルネサンスはギリシャ・ローマを勉強した。古典演劇は、特に大学でローマの芝居が、ラテン語の勉強にテキストに使われ、読んでるだけではつまらないので上演されるようになる。それもテキストだけだと話が決まってるので飽きがきて、それをお手本にして戯曲が書き始められたのがだいたい16世紀半ば、1550年代ぐらいから、古典劇の影響を受けた作家がぞくぞく出てくる。古典劇は、アリストテレスの詩学、演劇論の断片集ですが、例えば演劇とは、初めあり、中あり、終わりのあるものだとアリストテレスが言っています。つまり、いつ、どこで、誰がこういう問題を抱えているぞという提示があり、それが葛藤になり、そして解決して終わる。これが古典劇ですが、それとFolk dramaのエピソードの連続の2つがうまく結びつく、英語で言うと“Happy marriage”幸せな結婚をとげたのがエリザベス朝演劇です。
ですから『ハムレット』のポローニアスの説教場面もエピソードの連続の一つです。前衛詩人ながら古典主義者と自称するT.S.エリオットにとって、演劇は初めあり中あり終わりあるものと考えるから、このエピソードはむだになるわけです。
叙事演劇風に受け止めれば、シェイクスピアにもそういうエピソードの連続という面がある。
『ヘンリー六世』は歴史劇といわれますけれど、まさにいろいろな歴史のエピソードの連続、だからジャック・ケードも入ってくる。むだが楽しいと言ったけれど、こういうエリザベス朝演劇のひとつの特徴として、古典主義的演劇の美学から言えばむだと言われるものもちゃんと入ってくるし、そういう意味では日本の歌舞伎もむだな場面が非常に多い。エピソードの連続で,僕はそれを八ヶ岳型と呼び、一方、ギリシャ悲劇や、序破急のある能は初め・中・終わりのある富士山型と呼んでいます。