上海

1842年に上海が通商港として開かれると、イギリス人、アメリカ人、フランス人、ロシア人などが続々と上海に居留するようになり、当然の結果として自分の国や民族のライフスタイルや文化が上海に持ち込まれるようになった。

映画館でのオペラ上演

1915年1月、上海でオペラ『オテロ』が上演された。会場はオリンピック・シアター(Embassy Theatre)、後の新華電影院で、1914年に設立され、主に映画上映に使用されていた。音響効果に優れた映画館だったため、というよりは当時の上海で西洋のオペラという形式に適した場所がこのような映画館しかなかったために、1925年に再び上海公演に訪れたイタリアの歌劇団も同じ場所で『カヴァレリア・ルスティカーナ』など7つのオペラ作品を上演している。オリンピック・シアターより早いものとしては、1867年3月にイギリス人が資金を出し合って黄浦江近くの圓明園路に建設したライシアム・シアター(Lyceum Theatre)があり、「文明劇」と呼ばれた現代劇が主に上演され、映画の上映もあった。1871年に火事で焼損したが、1874年には隣の虎丘路に再建された。

1917年のロシア十月革命以降には、大勢のロシア人が続々と中国東北部のハルビンと南部の上海に「避難」してきたため、1920年代末までには上海在住ロシア人は1万人を超え、そのなかには非常に才能ある歌手や演奏家、バレリーナ、美術家が多く含まれていた。彼らは上海東華大劇場(Peacock Orient Theatre)、後の淮海電影院でロシアとイタリアのオペラを上映するようになった。この映画館は1926年に建造され、ロシア人の活動の中心であった霞飛路(今の淮海路)に位置していた。1932年には在住ロシア人による歌劇団が正式に設立され、1920年代から1940年春までの20年近くの間に、上海ではロシアオペラが17作、イタリアやフランスのオペラが15作、オペレッタが56作以上上演された。上演がもっとも頻繁だったのは1934~40年の6シーズンで237回の公演があり、作品は71作を数え、これにはもちろん市民に人気のあったオペレッタも含まれている。

上海大劇院完成以前のオペラ上演

1949年の新中国成立から「文化大革命」が始まった1966年までの17年間は、政治的な理由で、上海では古典的なオペラは2回のみ、市中心部の九江路の人民大舞台で上演された。1回目は61年の北京中央歌劇院が上演した『椿姫』、2回目はモスクワ音楽学院を卒業して帰国したばかりの指揮者曹鵬が上海歌劇院を指導して63年に上演した『蝶々夫人』。人民大舞台は1909年に完成し、主に京劇が上演されていたが、33年にステージ解体のため休業、翌年9月の再開時には当時大人気の京劇家だった梅蘭芳と馬連良が率いる2大京劇団が上演に招かれた。中華人民共和国設立後、大舞台は国有化され、2010年には改装して席数を949とし、中型の劇場となっている。

1976年に「文革」が終わると、ついに中国は世界に向かって開かれるようになったが、さまざまな制約を受けた結果、98年8月に上海大劇院が完成するまでの22年間に上海で上演されたオペラは古典の名作12作のみで、会場は主に上海市人民政府大ホールとマジェスティック・シアター(Majestic Theatre)で、マジェスティック・シアターは1941年の完成当時は上海でも一流の映画館であり、映画上映のほかに音楽会や歌舞公演も行われた。上海市政府は、72年にここで舞踊劇『白毛女』を上演した際、初めて中国を訪れたフィラデルフィア管弦楽団を招待したが、オーケストラ・ピットがなかったために、急遽前の方の観客席を数列分取り外すほかなかった。市政府のホールは、60年代後期に福州路と河南路の交差点に建設され、市政府の会議場として1700席を有し、「文革」期間中には特に「模範劇」上演のためにオーケストラ・ピットを新設した。昇降はできないものの、音響効果には優れていた。14年11月には、かつてのオーケストラ・ピットを「埋め戻し」て舞台を拡張し、ズービン・メータ率いるイスラエル・フィルハーモニーが音楽会を開く。

上海大劇院の誕生

市政府ホールでのイスラエル・フィル公演後、車椅子の著名なバイオリニストであるイツァーク・パールマンは当時の上海市副市長龔学平に対し、「上海には世界最高の聴衆がいるのに、世界最低の劇場があるんですね!」と言った。(当時の市政府ホールには指揮者とソリスト用の控室さえなく、オーケストラ奏者はみな2つの大部屋に押し込められていた。もちろん、身体障がい者用の通路などなかった)。確かに、改革開放以降中国各地には豪華な5つ星ホテルが多数建設されていたのに、世界レベルに達した劇場や音楽ホールはひとつもなかった。パールマン氏のこのひとことに、副市長は立腹することもなく、「おっしゃるとおりです。上海市政府は新しい劇場を建設することをすでに決めています!」と答えた。この新しい劇場こそ、1993年に計画がスタートし、国際的な入札で選ばれたフランスのシャーパンチ建築事務所が設計することとなった、上海大劇院である。大劇院は94年9月24日に工事を開始し、4年の工期を経て98年8月27日に竣工した。これは現代中国で初めて世界レベルに比肩しうる劇場で、1764席の大劇場、600席の中劇場、250席の小劇場を有している。大劇場のステージは当時建設中だった東京の新国立劇場と似ており、いずれも三菱重工が設計と建設を担当しています。新国立劇場の使用開始は97年と上海より1年早かったため、上海大劇院では操作系統に慣れるよう4人のステージ・エンジニアを新国立劇場に派遣して、研修と実習を実施した。

上海大劇院で最初に上演されたオペラは、イタリアのフィレンツェ歌劇場の協力による『アイーダ』で、400名近い演者が舞台上で「凱旋行進曲」を合唱する場面は、実に壮観であると同時に素晴らしい音響効果をもたらした。世界でも一流の歌劇場が上海についに出現したことは、海外からも注目され、その後、フランス、ドイツ、イギリス、ロシア、スイスなど各国の有名な歌劇場と協力してさらに多くの古典オペラを上演してきた。2013年11月の上海国際芸術祭の期間中には、ハンガリーのブダペスト芸術宮殿と共同で製作したヴェルディのオペラ『アッティラ』を上演。上演リストは、これからも付け加えられていくことだろう。オペラは永遠の音楽芸術なのだから。

演劇の公演も盛んだ。オープン当初より北京人民劇院を上海公演に招き、これまでに大劇場において『茶館』『天下第一楼』『古玩』『雷雨』といった大規模な話劇(中国の新劇)が上演されている。上海話劇芸術センターも、大劇院で話劇の大作『商鞅』と『日の出』を上演した。特に2012年には北京人民劇院が設立60周年を迎え、北京に加えて上海も重要な記念公演地となり、大劇院にて『知己』『原野』『窩頭会館』『我愛桃花』『関係』の5作品計17公演が実施された。国家話劇院も上海大劇院にたびたび登場し、12年には『赤い薔薇と白い薔薇』と『四世同堂』、13年には『大宅門』を上演。台湾の著名な演出家である頼声川による『暗恋桃花源』『宝島一村』といった多数の話劇も、ここで上海初演が行われている。中劇場も一年を通じ各種話劇の重要な公演地点となっており、新進気鋭の演出家である孟京輝の話劇のほとんどが上演された。小劇場でも、一年間に250を超える公演が行われている。

銭世錦[上海大劇院 芸術総督]

<2014.2.19発行 演劇『アルトナの幽閉者』公演プログラムより>