ルーマニア

ブカレスト、ヤシ、クルージュ、ティミショアラ、クラヨーヴァ、トゥルグ・ムレシュ、そしてシビウ。他の近隣諸国や、欧州一般の他の国々に比べ、ルーマニアには記録的ともいえる多くの国立劇場が存在する。またこれら劇場は————数年前にシビウ国際演劇祭の主催者としての功績を認められ「国立」に認定されたラドゥ・スタンカ劇場を除き————単一の文化と国家(さもなくば民族)を形成する苦闘史を一世紀半にわたり目撃してきた場所だともいえる。結果、この地には、極めて多様で、かつ極端に中央化された国が育まれてきた。

19世紀にさかのぼる「国立劇場」の概念

 「国立劇場」という概念自体、1859年の小ルーマニアの出発から1919年の大ルーマニアの形成に至るまで、ルーマニア独立国家の形成に深く関与してきた。これらの多くの劇場は地理的にも、東のモルダヴィア地方(ヤシ)、西のバナット地方(ティミショアラ)、中央のトランシルヴァニア地方(クルージュ)、南のムンテニア地方(ブカレスト)と、かつてのルーマニア歴史地図のすべての地域を網羅して広がっている。

 1848年頃、初の国立劇場が(とはいえ、その頃はまだ「国立」の名を冠してはいなかったが)当時国内でもっとも活気ある都市であったヤシに誕生した。ただヤシはその後、1859年に、首都の座をブカレストに譲ることになる(そして将来のこの地の国立劇場が、1852年に誕生する)。クラヨーヴァの国立劇場も、同じく19世紀後半にまでその歴史をさかのぼることができる。これに対しクルージュとティミショアラの国立劇場は、1920年代に出現した。旧オーストリア・ハンガリー帝国の権力下に置かれていた、トランシルヴァニア地方とバナット地方がともに「新しい」ルーマニア国家に併合されるときを待つ必要があったためだ。さらに19世紀以前に設立した劇場群と1919年以降に出現した劇場群を比較すると、以下のことが指摘できる。

 主に前者の役割が、外国文化の影響下からの地域文化の解放(何十年もフランス演劇とイタリアオペラのみが上演されていた)と、ルーマニア活字言語の普及に努めることにあった(当時は、国内各地域によって差異のある言語が話されており、戯曲の流布と各地域を行き来するツアーカンパニーの活動が、公用語の完成に貢献した)のに対し、後者は、この新たな活字言語と文化全般をトランシルヴァニアとバナットから「輸出」することで一つの国家ビジョンを紡ぐことにあったのだ。

街で最も大きい劇場が「国立劇場」

 最も近年の1962年に、同様の役割のもと誕生したのがトゥルグ・ムレシュ国立劇場だ。60年代当時、人口の半分がハンガリー人であった多民族的なトランシルヴァニア地方に生まれたこの劇場は、ルーマニア語とハンガリー語という2つの異なる言語を話す、2つのカンパニーを擁する劇場になるために設立された。62年以前は、この街にはハンガリー語劇場(この劇場さえ、第二次世界大戦後に設立されたばかりのものであったが)しか存在しなかったためだ。とはいえ、現在でも、いまだにこのビジョンは実現されていない。またこの国立劇場は、唯一、数々の歴史的ルーマニア公国の首都に置かれていない。共産主義体制下で当劇場が発展を遂げたことからも理解できるように、この劇場は、地元ルーマニア人にルーマニア語文化を付与する目的を保持しただけでなく、同地域に住む少数民族を「ローマカトリック教化」する目的も抱えていたためだ。

 2言語・2文化である性質を強調するこのトゥルグ・ムレシュ国立劇場と、国際的指向性の強いコラボレーションとレパートリーを維持するシビウのラドゥ・スタンカ国立劇場を除き、他の国立劇場はかなり似かよったプロフィールをもつ。文化省からの多額でかつ直接的な助成金、大所帯の俳優カンパニー、主に西洋の古典と近代戯曲からなるレパートリー、そして名のある演出家と組みリスクを回避する傾向だ。とはいえ、これらはすべて致し方ない傾向なのかもしれない。多くのルーマニアの公的機関が、国立劇場という名のもと「国家」について論じることを望まないのは、かつての国家的な共産主義体制へのトラウマだと言えるかもしれない。結果、これら劇場は「街で最も大きな劇場」という以外のなにものでもなくなっている。

質量ともに群を抜くブカレスト国立劇場

 現在、正しく「ナショナル」の概念について思考している劇場は、おそらくブカレスト国立劇場だけだろう。彼らは他の劇場より、例えば、今日の劇作家や演出家の発掘、あるいはルーマニア演劇全般の(再)発見に熱心だからだ。共産主義体制の崩壊直後の90年代初頭、この劇場はいっとき、著名な演出家であるアンドレイ・セルバンにより率いられていた。セルバンは70年代にルーマニアからニューヨークに移住し、ラ・ママ実験劇場で『Greek Trilogy』を上演し世界的評価を得た人物だ(同演目は、1990年にブカレストで改訂版が上演され同じく成功を収めた)。革命後の極めて不安定な状況下で、セルバンは芸術監督の座をやや性急に去らねばならず、ブカレスト国立劇場はそれから長きにわたる再組織化への道を歩まねばならなくなった。

 2000年から04年にかけての極めて国粋主義的な時期を経て(この時期にはいくつかの特筆すべき歴史劇や地方劇を除き、ほとんど何も起こらなかった)、同組織は失った観客を挽回すべく方向性を刷新する時期を迎えた。こののち数年間ブカレスト国立劇場は、有名俳優を配したいくつもの大規模プロダクションを上演した。脚本は、ルーマニア語戯曲(あまり上演されない「古い」19世紀戯曲を舞台化するプロジェクトが行われた)から、シェイクスピア、チェーホフ、そして欧州の著名作家であるエドゥアルド・デ・フィリッポなどの作品にまでおよび、これら戯曲が、喜劇的または保守的美学を重視して上演された。

 さらに、ブカレスト国立劇場はいま、劇的な再建時期を迎えており、将来的には、大小6つの舞台と野外劇場を携えた大組織に生まれ変わる。と同時に、レパートリーも再構成され、より若い劇作家やより新しい演劇に、門戸を開こうと試みている。とはいえ、まだしばらくは、「品の良い」ことばで「質の高い」価値について語る古典文化の殿堂として認知されつづけるだろう。

 「偉大な」戯曲を演出家が発掘し上演する、という極めて保守的な伝統にのっとり運営され続けてきたために、ブカレスト国立劇場とその他のより小規模な国立劇場群は、残念ながら、現在の実にダイナミックなルーマニア現代演劇シーンをまったく掌握できていない。今後これらの国立劇場は、新たな欧州圏への参加とともに国民国家の終わりを迎えようとしているこの多民族国家において、「ナショナル」とはどのような意味をもつ概念なのか……、歴史教育と活字文化の保存以上の志をもち、問いつづけ思考しつづけていく必要があるだろう。

演劇評論家 Iulia Popovici(Observator Cultural、ブカレスト/トゥルグ・ムレシュ芸術大学)

<2013.6.4発行『つく、きえる』公演プログラムより>