ジャマイカ

ウォード劇場とジャマイカ演劇史

レゲエとブルーマウンテン珈琲のふるさとジャマイカに、現存するカリブ最古の国立劇場があることはあまり知られていない。

首都キングストンの中心部に建つ壮麗なウォード劇場(Ward Theatre)は、今年でちょうど100周年をむかえる。1912年にキングストン市守護の役職にあったチャールズ・ジェイムズ・ウォード大佐によって建てられ、市民への贈り物として同市に寄贈された。

とはいえ、ウォード劇場の完成は、「ジャマイカ国民演劇」の成立をただちに意味するものではなかった。

「ジャマイカ演劇の父」と称される演劇人ウィクリフ・ベネット(1922─2011)の言葉を借りれば、ナショナル・シアター(国民演劇)とは「ある特定の時代とその国の特徴をもっともとらえている演劇であり、その形式と内容は国民の生をつかさどる心理的特質から引き出され」なければならない。つまり、ジャマイカの人々の精神や生活を描き出す作品がつくられ、上演される必要がある。この意味で、ウォード劇場における最初の30年間の活動は、ジャマイカ国民全体を取りこんだものではなかった。

ジャマイカでは、全人口の90%近くが黒人系、5%がムラート(白人と黒人の混血)であり、白人系はわずか1%にも満たない。しかしながら、300年にわたって英国による植民地支配と奴隷制を経験してきたこの国では、政治的・経済的支配者階級はほぼ白人である。そのため文化的にも、少なくとも公にはヨーロッパの文化や文学が「ハイカルチャー」とみなされていた。芝居を観るため劇場に行くという演劇習慣も、ながらく白人支配者階級だけに浸透した「セレブな趣味」だったのだ。

大英帝国の主要な海外植民地のひとつであったジャマイカには、早くも17世紀にはヨーロッパの演劇文化がもたらされた。英米の巡業劇団や海軍による公演が頻繁に行われ、1775年には帝都ロンドンにも劣らない設備と規模を誇る600席のキングストン劇場が建設されている。

18世紀から1920年代にかけて、ウォード劇場を含むジャマイカの劇場で上演される演劇作品のほとんどが英米からの輸入ものだった。とりわけ英国の「国民的劇作家」とうたわれるシェイクスピアの芝居は定番中の定番であり、いつでも大人気だった。シェイクスピアが書いたセリフが、ジャマイカでは「なまりのないきれいな英語」のシンボルとみなされていたためである。それはすなわち、ジャマイカでは上流階級のみが享受できた「ヨーロッパ式教育」を意味しており、シェイクスピアの英語を聞く、理解する、あるいは上演すること自体が特権的だった。

また、1920年代には、ニューヨークの最新ブロードウェイ・ミュージカルの巡業公演が頻繁に行われた。米国劇団が巡業を終えてブロードウェイに戻ると、「ジャマイカのキングストンで成功をおさめたばかりの新作」という宣伝文句を高らかにかかげたという。18世紀以降、ヨーロッパ由来の質の高い演劇文化が花開いたジャマイカの評判が、米国にまで届いていたことがうかがえる。

1930年ごろまでには、英国で演劇修業を積んだジャマイカ人のみならず、英国から移住した役者や演出家がジャマイカ演劇界をにぎわせるようになった。これらの演劇人たちは、ジャマイカをしてロンドンの演劇街ウエストエンドの延長たらしめることを目標にして、地元劇団による上演と人材育成に尽力した。当時の舞台上演の質は、英国ロンドンの最高水準にも引けをとらなかったという。

しかしながら、このころの劇場で見かける役者や観客は白人系ばかりだった。ベネットの記憶によると、30年代のウォード劇場にやってくる黒人の観客は、毎公演5人に満たなかったという。黒人の観劇は、法律上は問題なかったが、経済的な理由から、また実際問題として劇場はもっぱら白人上流階級の閉鎖的な社交場だったことから、黒人が観客として劇場へおもむくことはまれだった。

このように、国民の大半を占める黒人系が、観客としても演劇人としても参加できない演劇は、ナショナル・シアター(国民演劇)の理想からかけ離れていたといえる。

こうした状況に変化が訪れたのは、ウォード劇場完成から30年近くも経た1941年、劇団リトル・シアター・ムーブメント(LTM)が結成されてからだ。

LTMと新たな演劇伝統

LTMを旗揚げした白人系ジャマイカ人ヘンリー・ファウラー(1915─2007)とグレタ・バーク(のちのファウラー夫人)は、1941年から毎年ボクシング・デー(クリスマスの翌日、つまり12月26日)を初日とするパントマイムを上演するようになった。

「パントマイム」は、英国で17世紀に流行りはじめた演劇形式で、芝居、オペラ、バレエ、黙劇などさまざまな演劇的要素が混ざりあったミュージカル・コメディである。20世紀前半まで酒や食事をも提供する大衆的なミュージックホールで大流行した。

LTMによるジャマイカン・パントマイムの上演は現在まで、実に70年の間、毎年欠かさず行われている。そして何回かをのぞけば、毎年ウォード劇場で上演されているのである。

記念すべき最初の演目は、英国で大人気を博した『ジャックと豆の木(Jack and the Beanstalk)』だったが、2年後にはローカルな題材を扱うオリジナル作品がレパートリーに加わる。

ジャマイカン・パントマイムは、勧善懲悪の物語とふんだんな音楽やダンスを取り入れたという点で、英国パントマイムの伝統をくんでいる。しかしながら、早い段階から、ごく一部の観客にしか通用しないエリート主義的なテーマやこむずかしい言葉を避けて、ジャマイカ社会に暮らす一般の人々の時事的な関心やなじみ深い民話、ローカルな歌やダンスをも取り入れた。

ジャマイカ人の好みを考慮した舞台作りを長年続けた結果、クリスマス・シーズンの新たな風物詩として人々に親しまれるようになった。本場英国のパントマイムは、第2次世界大戦前夜にラジオやテレビの普及によってすたれたが、ジャマイカでは独自性を獲得して今日まで脈々と受け継がれている。

70年間のうちには観客層にも大きな変化が見られた。1941年の第1回パントマイム公演では、白人系の観客が大多数だった。それから四半世紀のちの1967年のパントマイム公演では、舞台に上がって、役者たちと一緒に歌いおどる大勢の観客のほとんどは黒人系で、白人はごく少数の観光客だけだったという。ついにウォード劇場は、パントマイム上演を通じて、全人口の90%を占める黒人系をも観客として取りこむことに成功したのである。芝居を観るために劇場に足を運ぶという演劇習慣が、新国家ジャマイカに根をおろしたのだ。

パントマイムという演劇習慣の定着が意味するものは「ジャマイカ演劇の“黒人化”ではなく、演劇の“ジャマイカ化”」だと、ベネットは述べている。かつては少数の白人エリートしか楽しめなかった演劇が、人口の大部分を占める黒人系にも受け入れられ、観劇という文化が広く普及したのだった。

今日、830席あるウォード劇場には年間を通して10万人を超える観客が訪れるという。これは単純計算するとジャマイカ国民の27人に1人にあたる。

ウォード劇場は、はじめは限られた人種と階級の人々が集う社交場でしかなかった。やがて社会的・歴史的状況を反映しながら、時間をかけて着実にジャマイカの国民演劇を熟成させる場へと変わっていったのである──まるで、ジャマイカのもうひとつの名物であるラム酒をゆっくりと醸成させていく樽のように。

松田智穂子[一橋大学非常勤講師・英語演劇研究]

<2012.6.26発行『温室』公演プログラムより>