アイルランド

ダブリンのアベイ座(アイルランド国立劇場)

アベイ座は、アイルランドの国立劇場として、劇作家および演劇人が中心となり、アイルランド国民の劇場への参加を積極的に促し、社会を映し出す一流の作品を作ることを使命とする。――アベイ座の使命と芸術方針に関する声明文より――

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アベイ座は、劇作家ウィリアム・バトラー・イェイツと、1903年ロンドン公演が縁でアイルランドへ移住したイギリス人資産家でプロデューサーのアニー・ホーニマンの2人が考案し、設立した。ホーニマンは、俳優のフェイ兄弟率いるアイルランド国立演劇協会に投資し、ダブリン演劇界を活性化させようとして、ローワー・アベイ街の古い劇場を買い取った。さらに、フェイ兄弟と、彼らを支援していたオーガスタ・グレゴリー夫人を呼び寄せた。04年12月27日、この新しいカンパニーは、一幕劇3本立てをこけら落とし公演として上演する。イェイツ作『キャサリーン・ニ・フーリハン』『バレの磯』、そしてグレゴリー夫人作『噂の広まり』が初日の演目だった。しかし2日目の夜より、あたかもカンパニーの将来を予告するかのように、イェイツ作品の一作がジョン・ミリトン・シング作 『谷間の影』に変わった。シングはその後、カンパニーの発展に大きく貢献することとなる。

イギリスの桂冠詩人として知られるジョン・メイスフィールドは、設立当初の公演を観劇し、その演技力に感心すると同時に、アイルランド独自の伝統が確実に反映されていると記した。05年1月2日付『マンチェスター・ガーディアン』紙に次のような記事を書いている。

若く自己顕示欲のないアイルランド人俳優にとって最も大切なのは、戯曲だ。抑制の効いたジェスチャーと一風変わった上品な発音で、スタイリッシュな演技を駆使し、この時代の最高峰の戯曲を演じている。カンパニーで最も実力ある俳優が感情の奥深く細かな機微を表現すると、人間ドラマの偶然性だけでなく、その背後にある思想も表面化してくる。国の悲惨な状況や無残な日常のはるか彼方、世の中にはさらに大きな課題が広がっていることを考えさせられる。彼らの芸術性は、イギリス中見渡しても類がないほどだ。そこには美があり、人生に不可欠なものとして、生活から生まれた劇的な芸術の、最もモダンな型がある。

07年までには、ヨーロッパの他の劇団に引けを取らないほど実力のあるカンパニーとなり、多数のアイルランド人劇作家による書き下ろし新作を上演した。アイルランドやイギリス中をツアー公演し、各地で成功をおさめた。シング作『西国の人気男』の初日07年1月26日には、痛烈な批判を盛り込んだ作品内容をめぐり、観衆に暴動が起こったが、警察の介入で騒ぎは鎮まった。

フェイ兄弟がカンパニーを脱退したのは08年、シングも09年にこの世を去り、アベイ座の転換期となった。その後、レオナード・ロビンソンが1910年から亡くなる58年まで運営を引き継ぎ、それまでの詩的演劇スタイルに代わってモダン・リアリズムを主流にした。大勢の劇作家がカンパニー幹部に名を連ね、アベイ座は劇作家主体の劇団であるとの評判を確立した。

第一次世界大戦と16年のイースターの反乱(注:アイルランド共和主義者による復活祭週間に起きた武装蜂起)のころ、カンパニーの主要メンバーが次々と脱退し、劇場閉鎖に追い込まれた。が、16、17年にバーナード・ショーの戯曲が6作品も初演されたうえ、社会派劇作家ショーン・オケイシー作品の上演も相次ぎ、継続することができた。オケイシーはダブリンの労働者階級の生活を初めて取り扱った作家である。オケイシー作品のうち、26年の『鋤と星』は『西国の人気男』の上演時のように、騒動が起こった。このあと劇場幹部はオケイシー作品の上演に慎重になったため、彼はロンドンに移住してしまう。が、彼の戯曲は今でもアベイ座にとって重要な財産となっている。その後もブリンズレー・マクナマラやジョージ・シールズという劇作家の出現により、カンパニーは実力をつけていく。

24年、イェイツとグレゴリー夫人は、アイルランド自由国政府にカンパニーを無償で譲ることを申し出た。政府は受け入れなかったが、逆に年間850ポンド(当時の換算レートで約8500円)の助成金を出すことにした。そのため、英語圏で初めて国の助成金を受ける劇場となる。長年続いた赤字経営の末、助成金により倒産は免れ、団員の報酬もわずかに増えたが、経営状況は困窮から脱するには至らなかった。

33年、カンパニーは劇場の隣の建物内に、より実験的な作品が上演できる小空間を手に入れ、ピーコック劇場と名付けた。当時のピーコック劇場は、後にゲート座となるメンバーとアベイ座のメンバーの溜まり場だった。(注:ゲート座は、ヒルトン・エドワーズとマイケル・マクリアモアが設立したカンパニーで、現在もアベイ劇場と切磋琢磨し合うのに程良い距離のキャベンディッシュ通りに劇場がある。ダブリンで初めてイプセンの芝居を上演したことでも知られる)

51年、アベイ劇場は火事で焼失したが、ピーコック劇場だけが残った。66年に新劇場が完成するまで、アベイ座はクイーン劇場に拠点を移し活動した。このころから、ヒュー・レオナルド、トム・マーフィー、そしてブライアン・フリールといった劇作家たちが、カンパニーの再興に大いに貢献した。マーフィー作『暗闇の笛』(61)、『ジリ・コンサート』(83)、ヒュー・レオナルド作『ダ』(73)、フリール作『フィラデルフィアへやって来た!』(64)、『霊能治療者』(79) 、『ルナサの祭りの日に』(90)といった作品がロンドンのウェストエンドやブロードウェイで上演され、アベイの国際的評価を高めた。

創立100周年にあたる2004年、本来はこれまでの栄光の数々を祝う年のはずだったが、アベイ座は再び窮地に立たされた。魅力のないラインナップで興行収入が落ち込み、複雑な組織により会計処理に困難をきたし、一気に赤字に転落した。劇場は250万ユーロ(約3億5000万円)の負債を抱え、スタッフの3分の1がリストラされ、しかも、建物は耐用年数をはるかに超えていた。このような状況の中05年に、演劇・映画製作プロデューサー、フィナ・マックコールが芸術監督に起用され、現在も現職である。彼はまず設立当時より変わらなかった組織形態を再検討した。そして、新作書き下ろし作品の上演を中心にロンドンのナショナル・シアターのような多彩なラインナップを組み、アイルランド中へのツアーを強化するビジョンを掲げた。

05年、それまで100年以上カンパニーの運営に携わってきた「国立演劇協会」が解散し、「株式会社アベイ劇場」という新しい組織が設立した。07年には、新しい劇場の建設計画が発表されている。ダブリンの波止場地区に700席のメイン劇場、350席の中劇場、150席のスタジオという3劇場、稽古場や教育施設、倉庫、衣裳保管庫、アーカイブ、オフィス、バー、レストラン、本屋などを完備した建物の一大構想である。100年以上前にイェイツとグレゴリー夫人が語った「アイルランド人の豊かな感受性を舞台にのせる」という目的は、21世紀の今もアベイ座の存在意義として息づいている。

注:アベイ座の文化的役割と価値観に関するウェブサイト別ウィンドウで開きます

ウィリアム・ジェイムス[ディレクター、在ウェールズ]

<2012.5.31発行 演劇『サロメ』公演プログラムより>