現代戯曲研究会
マーティン・クリンプの実験作
平川 大作
戯曲の研究会なのだからもちろんのこと、検討の対象は戯曲作品だ。
「戯曲とはなにか」といえば、ひとまずは「せりふとト書きからなる上演のためのテキスト」と答えるとして、それにすんなり該当しないのが イギリスの作家マーティン・クリンプ (Martin Crimp)の代表作 『アテンプツ・オン・ハー・ライフ』(Attempts on Her Life)である。
冒頭に「芝居のための十七のシナリオ」と記された後に、長短さまざまな断片が続いている。それぞれに付された小題を順に挙げると以下の通り。
「すべてのメッセージを消去しました」
「愛とイデオロギーの悲劇」
「われら自身の信条」
「借地人」
「カメラはあなたを愛している」
「ママとパパ」
「新しいアニー」
「素粒子物理学」
「国際テロリズム(登録商標)の脅威」
「笑える感じ」
「無題(百の単語)」
「奇妙なことに!」
「エイリアンと交信する」
「隣の女の子」
「供述」
「ポルノ」
「解凍」。
さて、一体どんな物語なのかと読み進めても、これらの断片は断片のまま一向に結びつこうとしない。それどころか、それぞれのせりふらしき言葉にはそれを話すべき「役名」が記されていない。ただ、どの部分で話者が交替するべきかが記号で示されているだけだ。総勢何人のキャストで演じるべきなのかも指定がない。
たとえばシナリオ「無題(百の単語)」はモダン・アートのギャラリーとおぼしき場所で語られる論評から成る。その一部を引用しよう。
「いわゆる対話とか、『芝居』のみっともない大団円目指してドタドタ動き回る、いわゆるキャラクターといった古くさい約束事の代わりに、アンはオブジェの純粋な対話を見せてくれている」
アンと呼ばれる女性はここでは新進気鋭、自らの存在を賭して作品を発表するアーチストなのだが、別の断片ではテロリストであり、ポルノ女優であり、あるいは故郷の村の殺戮を生き延びた女であり、理想の妻であり、果ては新型の車である。名前もアニー、アーニャ、アヌーシュカとさまざまで、とてもひとつの人格にまとめることはできない。
本作は、(どうやら)千変万化とらえどころもなく現代社会のさまざまな時と場所に断片として存在するアンを記述する試みであり、そこでは通常戯曲に必須と考えられているキャラクターの概念さえ破棄されている。識者によれば、高度資本主義の社会において一個の統一された人格を維持することが最早不可能事であるという事態の真摯な表現ということらしいが、それはあくまで解釈のひとつに過ぎないだろう。
もともと物語性重視、伝統志向が強いイギリスの劇界において異例なことに、クリンプが1997年に発表したこの前衛作品は数多くの上演例があり、20以上の言語に翻訳されている由。昨年には英国立劇場で10周年の再演があり、「この25年間で最も重要な実験作」という評言もある。これまで日本の舞台で紹介されなかったのが不思議に思えてくるほどだ。
クリンプは1956年生まれだから発表時は41歳。決して勢いで押し切った若書きではない。むしろ欧州各国の新しい現代劇が目指す指向性を手堅くまとめあげた観がある。イヨネスコ、コルテス、モリエールなどフランス戯曲の英訳という経験がもたらした影響も大きいだろう。視野と問題意識がイギリスに限定されず、世界全体の政治・経済・文化状況に至っているのは、『アテンプツ』にごく数行ではあるが日本語そのもの(ただしローマ字表記)が使用されていることからも明瞭だ。
実験作の常として、通り一遍の説明を拒絶する得体の知れない潜在力が本作にはあり、それをこうした紹介文で語るのはまた難しいところ。
近々新国立劇場にてリーディングの形式で観客のみなさまに披露する予定があるので、ぜひご期待いただきたい。
(大手前大学准教授)
<2008.12.3発行『舞台は夢』公演プログラムより>