デヴィッド・ビントレー 舞踊芸術監督 「これから始まる新しい時代、日本中のバレエを愛する観客の皆様に、私たちの提唱する“New Direction〜新しい方向”がもたらすエキサイティングな時間を、共に分かちあい、楽しんでいただきたいと思います。」

プロフィール

デヴィッド・ビントレーは1957年にイギリス北部のハダーズフィールドで生まれた。両親とも音楽教師で、熱心なジャズ奏者だった父は息子に幼少時からジャズの名盤に触れさせた。ビントレーはダンスに興味を持つようになり、すべてをやってみたいと言ったため、10歳から地元でジャズ・ダンス、タップ・ダンス、民族舞踊、キャラクター・ダンスのレッスンを受けた。しかし1972年からは、ヒッパーホルムのドロシー・スティーヴンズ・スクールでバレエに専念する。2年後、弱冠16歳で彼は最初のバレエを振付け、イーゴリ・ストラヴィンスキーの1918年の演劇音楽「兵士の物語」を舞台化する。

1974年、彼はロイヤル・バレエ・アッパー・スクールに入学し、バレエの訓練を受けつつ振付も続け、2年目には「美しく適切なこと」でアーシュラ・モアトン振付コンクールで優勝する。卒業の年には「コッペリア」のコッペリウス博士を踊り、類まれなキャラクター・ダンサーという評判を確立し始めた。彼はロイヤル・バレエ団の創立者であり大物であるニネット・ド・ヴァロワからこの役(他に「ジョブ」のサタン役も)の指導を受けている。「マダム」として知られるド・ヴァロワは、イギリスのバレエ界のダンサーや振付家を数多く教え、数世代に渡って影響を与えた敬服すべき女性である。当時のロイヤル・バレエ団の芸術監督、ケネス・マクミランも彼の振付の才能を認めていた。

1976年、彼はバレエ学校を卒業しサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエにコールド・バレエとして入団する。好調なスタートを切り、2年めでフレデリック・アシュトン振付「リーズの結婚」の主要な役であるシモーヌ役を踊り、一躍その名を知られることとなった。その2年後、彼は初版の「テイク・ファイブ」を初演する。これはデイヴ・ブルーベックの音楽に振付けたジャズ風の作品で、見た者にも踊った者にも愛情をこめて記憶されている作品である。

サドラーズ・ウェルズでビントレーの芸術監督だったピーター・ライトは、この若いダンサーに振付を奨励し、1978年に最初の大きなチャンスを与えた。ビントレーはサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエ団のために「異邦人」を創作した。この作品には、豊かな創意と登場人物の洞察、鋭い演劇的センス、並々ならぬ詳細に渡る音楽的知識がすでに見て取れた。使われた音楽は、ほとんど知られていないチェコの作曲家ヨゼフ・ボハッチのものだった。これらの資質すべてがやがて彼の作品に太鼓判を押すものとなった。

その後の5年間は多くの成功に恵まれる。ニネット・ド・ヴァロワの「チェック・メイト」の赤のキングの演技で賞賛され、「諺の草地」(1979年)、「ナイト・ムーブズ」(1981年)を含むサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエのためのいくつかの作品と、初の全幕物語バレエ「トゥオネラの白鳥」(1982年)で成功を収めた。その他に踊った役はド・ヴァロワの「放蕩物のなりゆき」の水夫、ジョン・クランコ振付「じゃじゃ馬ならし」のグレミオなどがある。1983年はとりわけ活躍した年となった。ロイヤル・バレエ団のために作品(「コンソート・レッスンズ」)を振付けたばかりでなく、彼の作品「コロス」がイヴニング・スタンダード賞を獲得し、26歳にしてサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエのカンパニー・コレオグラファーに任命されたのである。この成功は翌年も続く。ビントレーは3つの振付賞に加え、ミハイル・フォーキンの「ペトルーシュカ」のタイトル・ロールを踊ってオリヴィエ賞を受賞、計4つもの賞を受賞した。

そして彼は、1985年にエジプトの神に想を得た抽象バレエ「ホルスの息子たち」を、1986年にロイヤル・バレエ団のためにスピード感のある「ガラントゥリーズ」を、そして同じく1986年にサドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエのために全幕作品「雪の女王」(ハンス・クリスチャン・アンデルセンによる同名の童話に基づく)を創作した。その年はロイヤル・バレエ団のレジデント・コレオグラファーに任じられた。

今ではその演劇的な全幕作品でよく知られていることであるが、デヴィッド・ビントレーは、英国の豊かな演劇的遺産に影響を受けた物語バレエという英国の伝統を明らかに受け継いでいる。この思想を持つイギリス的振付けの流派は、ド・ヴァロワ、アシュトン、マクミランによって扇動され、普及した。英国ではバレエは頻繁に物語の一部として、ストーリーと感情を伝え、登場人物を掘り下げるために使われた。これとは別の思想の流派はアメリカのジョージ・バランシーンがその典型とされるが、物語や舞台装置までもある程度不要とし、抽象的な作品が好まれた。

この後の数年間に、ビントレーの最大の成功作が生まれた。名人芸を見せ付ける「アレグリ・ディヴェルシ」(1987年)に続く作品は彼の最大の人気作のひとつ「ペンギン・カフェ」(1988年)、そしてイギリス北部出身の靴職人に関するコメディー・バレエ「ホブソンの選択」で大騒ぎを起こした。「マダムのために−『イギリスの』バレエ」と副題がつけられたこのバレエは、物語バレエという偉大な英国の伝統への捧げものであった。「ホブソンの選択」の初演は、20年以上前に初演されたフレデリック・アシュトンの「リーズの結婚」以来となる大喝采をロイヤル・オペラ・ハウスにもたらした。

その後は1990年「惑星」、1991年「シラノ」(ともにロイヤル・バレエ団)と、成功度のやや低い作品が続いた。しかしながら、1993年のバーミンガム・ロイヤル・バレエの「シルヴィア」と同年高い評価を得た「墓」は、彼がますます充実していることを証明した。「墓」は、1988年に亡くなった故フレデリック・アシュトンを偲んで創作した作品である。

ロイヤル・バレエを離れたビントレーは、続く数年間に海外で仕事をする機会をつかむ。世界中のバレエ団のために振付けたが、その中にはミュンヘン・バレエの「コンプリート・コンソート」(1994年)、シュツットガルト・バレエのために振付けた辛らつながら大成功の「エドワード2世」(1995年)、サンフランシスコ・バレエの3作品などがある。そのひとつが「ザ・ダンス・ハウス」(1994年)である。近年亡くなった友人と同僚を偲んで創作され、別の友人の芸術家ロバート・ハインデルのデザインによる装置と衣装を使ったこの作品は、個人的な感情のこもった作品である。

1990年、ピーター・ライトの指導の下、サドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエはロンドンを去るという果敢な一歩を踏み出した。バレエ団はバーミンガムに拠を構え、バーミンガム・ロイヤル・バレエとなった。その5年後、ピーター・ライトは引退し、デヴィッド・ビントレーが芸術監督の座を引き継ぐべく招かれ、彼は今日もその任にある。新しいバレエ団のために彼が最初に作った作品は、カール・オルフの有名な曲に振付けた“ポップな”バレエ、「カルミナ・ブラーナ」である。次は1996年の「遥か群集を離れて」であるが、これは「ホブソンの選択」の作曲家ポール・リードの曲に振付けた全幕の物語バレエである。

監督という新しい役割に慣れるにつれて、違った角度からバレエにアプローチすることによって一連の成功もついてくる。デューク・エリントンの音楽によるウィットのきいたジャズ・バレエ(「くるみ割り人形のキャンディ」(1996年)、「シェークスピア組曲」(1996年)、深い精神性の「奇跡のヴェール」(1998年)、そして記念碑的2部建ての叙事詩「アーサー王」(第1部2000年、第2部2002年)を創作した。アーサー王伝説に基づいたこの2夜に及ぶバレエは、魔法使い、騎士、愛と裏切りの壮大な物語が4時間のスリリングなダンスの中に凝縮されている。また、「四季(The Seasons)」(2001年)、「コンサート・ファンタジー」(2002年)、「四季(Les Saisons)」(ロイヤル・バレエ2003年)などの抽象バレエと、ファミリー向けの新しい童話バレエ「美女と野獣」(2003年)を振付けた。さらに2つのジャズ・バレエが続く。デューク・エリントンへのオマージュであるが、音楽はジャズ作曲家でバンド・リーダーのコリン・タウンズによる「オルフェウス組曲」(2004年)、そして彼の初期の作品を完全に新しいバージョンにした「テイク・ファイブ」(2006年)。10年前の「くるみ割り人形のキャンディ」創作時当初から考えていた、ジャズ3部作がこれで完成を見る。

2007年、ビントレーはもうひとつの初期作品「シラノ」を改作し、新バージョンのバレエを作る。映画やTVの音楽で知られる作曲家カール・デイヴィスによって新しい音楽が書かれ、「シラノ」は完全に振付けし直された。結果は大成功で、コメディーと妙技と複雑な筋立てが明快で胸躍る舞踊劇にみごとに一体となり、「レ・ミゼラブル」のバリケードを思わせる戦場のシーンで完結する。最新の作品では、1993年の「シルヴィア」の改定版が2009年の2月に初演され、東京の新国立劇場バレエのために全く新しい「アラジン」が、「シラノ」の作曲家カール・デイヴィスの音楽により壮大なスペクタクルとして創作された。

ビントレーは2001年のバースデー・オーナーズ・リストでCBEを授与された。現在彼のバレエは海外で定期的に上演されている。2006年、彼は「カルミナ・ブラーナ」を上演するために日本の新国立劇場バレエ団に招かれた。その大成功により、翌年「アラジン」の創作を委嘱されたばかりでなく、この国立バレエ団の芸術参与の地位を提示された。2010年には、バーミンガムでの責務と平行して、同団の芸術監督に就任した。

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